華道相阿彌流とは

    華道相阿彌流とは

    華道相阿彌流(そうあみりゅう)は今から500余年前、室町時代に生きた相阿彌眞相を始祖とする、由緒ある華道の名門です。

    相阿彌眞相は足利8代将軍義政公同朋衆の1人として仕え、絵画、華道、香道、造庭など芸術全般に秀でた室町文化の代表的担い手でした。

    一般に知られているものでは、大徳寺・大仙院の襖絵、龍安寺の石庭などがあり、水墨画はボストン美術館、メトロポリタン美術館などに収蔵されています。

    相阿彌《四季山水画 (瀟湘八景)》,屏風絵:16世紀初頭.メトロポリタン美術館蔵.
    相阿彌《四季山水画 (瀟湘八景)》,屏風絵:16世紀初頭.メトロポリタン美術館蔵.

    相阿彌《四季山水画 (瀟湘八景)》,屏風絵(六曲一双),16世紀初頭.メトロポリタン美術館蔵.

    華道相阿彌流は創始以来久しく京都・等持院にあり、その後大津を経て、名古屋・善導寺の住職に伝わってきましたが、17代今月庵宗甫の代(明治中期)から東京に移り現代に至っています。

    18代横地宗庭は昭和天皇の御即位大礼に生花装典の命を受け、19代横地宗象円は上皇陛下御成婚に際し、東宮御所において生花を謹挿しています。
    20代横地和光は常陸宮妃殿下より「いけばな褒賞杯」を拝受しています。

    華道相阿彌流の特色は「生花は花を生くるにあらず、心を生くるなり。花を生けるにあたり、礼のことまつるべし。」と、花を生けることによって人間を磨き、人間をつくることによって花も立派になるという境地を大切にしていることにあります

    時代の風潮におもねることなく、相阿彌の精神と型を守り、古典の神髄を厳格に存続することを主眼としています。

    また、19代横地宗象円が、現代の空間を創作するいけばなを現代花として創案以来、古典、現代の両面を相互に錬磨しています。

    華道相阿彌流の歴史

    相阿彌流は相阿彌眞相(そうあみしんそう)によってはじまる。

    祖父を能阿彌、父を芸阿彌とし、その子相阿彌と3代にわたる偉大な芸術家族の末代として生まれた。
    生花のみならず、絵画、香道、造庭に秀で、号は松雪斎、3代共に足利将軍義政に仕えた。


    3代とも書画・茶器・刀剣等の鑑定に通じ、中国の作品をも鑑別したことから唐物奉行(からものぶぎょう)の役職にも当たっていた。
    その時に記された『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』は、美術史の上でも貴重な文献とされている。

    その頃の挿話に、足利8代将軍義政公が軍学に相阿彌を連れて八瀬大原にさしかかった折、葉蘭が自然に繁茂していた。
    義政公はそれを見て、「相阿彌、汝これを生けてみよ」と命じた。
    相阿彌は出先のこととて花器の持合せがなかったので、馬だらいにくつわを花留めとして、葉蘭の自然の形態を生けて御覧にいれたところ、義政公は、「風韻いまだ乏し」と喜ばれなかった。
    そこで相阿彌は、軍学調教中の強者(つわもの)どもの隊形を見て悟るところあり、隊形の入り乱れる様を形式化して葉蘭を生け直したところ、義政公はいたく感服し「汝よろしく斯道を後世に伝え、門葉を啓発すべし」との賞讃言葉を賜ったということである。(これが現在も残る「魚鱗鶴翼の花型」なのである)

    華道相阿彌流第21世家元・横地画抱(よこちがほう)の作品

    能阿彌・芸阿彌・相阿彌は3代とも優れた水墨画家であり、能阿彌には観音の作品、芸阿彌には観瀑図があり、相阿彌は大徳寺大仙院の山水図《瀟湘八景図》(京都博物館蔵)が代表的なものである。

    芸術全般に幅広く活躍をした相阿彌は、造庭・床飾りに付随して、華道は彼によって道として成立したのである。

    相阿彌によって興った相阿彌流は、伝統を受け継ぐこと500余年、現在21代家元横地画抱によって継承されている。
    流の掟として「家元は華道をもって生業とすべからず」とされ、代々これを守って今日に至っている。
    先代は画家で、先々代は医者であった。その他、僧侶が一番多く、御殿医、徳川将軍家出入薬種商人等がいた。

    こうして、華道を職業としてはいなかったので、時代におもねて相阿彌の精神と型を崩すことなく古典の神髄を最も厳格に存続させることが出来たのである。

    現在の相阿彌流に伝承されているものは、相阿彌眞相に加えるに500余年の歴史が取捨選択してより高いものに磨き上げてきたものである。
    歴代の家元及び実力者の成果が結集して、ゆるぎない厳格な古典が存続しているのである。

    古典とは儀軌という法則のことである。
    そしてその法則を造り上げた精神の内容の厳しさ、これが古典である。

    相阿彌流は儀軌をもった典型に、作者の人格を投入する華道である。
    このような経過を経て造られたものは、「生花」といわず「格花」という。
    従って相阿彌流においては、作品には厳しい内容を求められるため、「格花」という。

    流の古伝書によると、37代斉明天皇の御宇、河内の人、道昭僧都は勅命を奉じ、仏道大典の式法を極めるため、白雉2年(651年)5月入唐、玄奘法師について学び、法相図円融五大の妙理を会得して、在唐8年斉明5年(659年)4月帰国、仏道弘通の傍ら大仙原論を著し、中に花蕓の妙諦を伝えた。
    その後、護命僧正、明恵上人等、草木花をよくし、讃仏供養に瓶花を捧げ、且つ日常も風流韻事として花を嗜んだと記録にある。

    また、101代後花園天皇の御宇、足利8代将軍義政公の同朋、相阿彌眞相(1430~1524)、隅々大仙原論を繙くに及んで、豁然と啓発され、円融五大の理論を芸術に生かし、花を生ける上にも適用した。
    即ち五天花蕓の原理を体得して、陰陽天地人五行相対の型を創案。ここに本流が始まったとある

    文明11年(1479年)、相阿彌眞相は、園左中将基光朝臣の嘱により、桜花を青竹に挿し、後土御門天皇の叡覧に供し奉ったところ、時の伝奏勧修寺中納言教秀卿を通じて、御讃辞並びに褒賜をたまわった。
    また同15年(1483年)、義政公は、東山山荘に慈照寺(銀閣寺)を建立の折、その遷座に荘厳なる式を挙げ、百官百臣を迎えるにあたり、相阿彌眞相に命じて百花百草を挿花させて饗応した。
    その首座に松の古本をもって、陰陽合体の格花を装典したとある。

    この様な歴史を連綿と受け継ぎ、古典を正しく伝承しているが、しかしながら、古典は型のみを遺すのでは正しくないのであって、むしろ型のできた古典の心が大切なのである。
    を伝えながら現在までに至っている。

    (『歴史研究』平成15年11月号第510号より転載)